パリ・ノートルダム大聖堂と首里城
2019年の火災を超えて 復元と文化遺産の価値を考える
平面図 © Grégory Chaumet, Plemo3D
縦断面 © Grégory Chaumet, Plemo3D
西バラ窓 © Christian Lemzaouda, CAC
ダニー・サンドロン (訳:河野俊行)
1160年代初頭に始まった大聖堂の建設は、東から西へと段階的に進み、1240年代半ばに大聖堂西正面の双塔が完成した。
教皇アレクサンドル3世の立会いのもとで行われた定礎式は、この建物の最も古い部分であるクワイヤ辺りで行われたと思われる。モン・サン・ミッシェルの修道院長ロベール・ド・トリニーの証言によると、この建物はヴォールトを除いて1177年に完成していた。そして1182年に行われた聖歌隊の聖別式の際には、ヴォールトは設置されていたと考えられる。その後数十年の間作業は遅延することなく続けられ、トランセプト (袖廊) が完成し、身廊東側の工事が続けられた。工事は1220年頃まで建物西端で続き、力強い西正面壁はバラ窓の上端まで建て上がっていた。1245年頃には塔上部とその基部を囲む回廊が完成し、この時、北塔の鐘楼に鐘が吊るされたのであった。
こうして約80年の歳月を経て構造に関わる工事は完了した。当初の計画では大聖堂は十字型のプランを採用していた。主身廊に沿って二重に側廊と周歩廊が設けられ、中央でトランセプト (袖廊) と交わる。主身廊はもともと4層構造からなり、下から大アーケード、トリビューン、トリビューンの小屋裏を見下ろす位置に円形のベイ (柱間) またはオクリ (円形窓)、そして比較的小さい高窓からなる。またリブ・ヴォールトも広く用いられた。ヴォールトは当時記録的ともいえる高さ30メートルを超える高さに設けられ、それを支える巨大な建築物のバランスをとるために、クワイヤと身廊の外部に飛び梁を設置してリブ・ヴォールトの推力に抗している。見事な効果を発揮したこの技術は、ゴシック芸術の典型であり、数世紀にわたる大バシリカの五廊 (主身廊、両側の側廊、両側の周歩廊) と列柱の伝統をも生かしつつ、建築を変容させたのである。
このようにノートルダム大聖堂は、古キリスト教時代に遡る伝統と、最新の技術や形態を組み合わせた独自の総合的な作品となっている。その証左として、双塔を持つ西正面に設けられた光線の差し込む大きなバラ窓を挙げることができる。これは建設当時から、後世に長く語り継がれるべき最も記念碑的なファサードとされた。