パリ・ノートルダム大聖堂と首里城
2019年の火災を超えて 復元と文化遺産の価値を考える
トランセプト北側のファサード © Christian Lemzaouda, Centre André Chastel
トランセプト北側のバラ窓 © Andrew Tallon, Mapping Gothic France
シュヴェ © Andrew Tallon, Mapping Gothic France
ダニー・サンドロン (訳:河野俊行)
1240年代半ばに大聖堂の外壁が完成する前から、建物には大幅な変更が加えられていたが、それは14世紀後半に至るまで続いた。
早くも1220年代には、主身廊とトランセプト (袖廊) の上部が改修された。建物内の明るさを増すために高窓は下方向に伸長された。その結果、当初の円形窓はなくなり、ベイ (柱間) の枠はトリビューンのアーケード上端に達した。同時に、高廊の壁も高くなった。大屋根の基部に平らな箇所が設けられ、ここで雨水を集めて飛び梁に流すことができるようになった。雨水は飛び梁のアーチに埋め込まれた樋を通って先端のガーゴイル (樋嘴) に達し、ガーゴイルの口先から排水されることで、雨漏りのリスクが軽減された。この大作業のために、広い屋根裏の小屋組を組み直す工事も必要になった。
同時に、聖職者がミサを行うための祭壇を置くための最初の側部祭室が建設された。多くの側部祭室は聖職者や少数の高位の人々によって建てられた。これらの祭室は、身廊に沿って飛び梁の控壁どうしの間に収まるように建てられ始め、さらに14世紀の初めまでクワイヤに沿ってシュヴェの回りにも設けられた。
柱間を一つ増やしてトランセプト (袖廊) を伸長したことで、建物側面の輪郭が維持された。トランセプト(袖廊)の元のファサードは取り壊され、南面、北面ともに同じ構成に基づいて新しいファサードが作られた。すなわち南北のポルタイユ(玄関)は、破風をのせた複数のアーケードと巨大なバラ窓をもつ構成に組み込まれたのである。ここで初めて建築家の名前が登場する。ジャン・ド・シェルである。彼は1258年に建設された南北2つのファサードのプロジェクトを考案したが、完成前に他界した。南側のファサード下部にその名が刻まれている。1265年に大聖堂の主任建築家として名前を挙げられるピエール・ド・モントルイユは、ジャン・ド・シェルから直接任務を引き継いだのかもしれない。13世紀後半にトランセプト (袖廊) の交差部に建てられた鉛で覆われた最初の木製の尖塔が誰の手になるものかは不明である。高さ86メートルのこの尖塔は、パリの景観におけるノートルダム大聖堂の地位を脅かした1248年建造のサント・シャペルの尖塔をも含むパリのあらゆる建造物を凌駕するものであった。
14世紀には、側部祭室がすべて完成し、シュヴェが大きく形を変えた。屋根は石造テラスによるフレームに置き換えられ、建物のベイ (柱間) は完全に取り除かれたからである。建築家レイモン・デュ・タンプルによるこの「偉大な工事」は、近代以前の最後の大改造となった。