中世大聖堂の機能と用途

Jean Marot 作, テ・デウム (聖歌)1660年8月 © BnF Est.Rés.QB-201, t.44

身廊北側のグアダルペの聖母の礼拝堂 © Dany Sandron, CAC

王のギャラリーがある西側ファサードの中央部 © Christian Lemzaouda, Centre André Chastel

大聖堂における儀式

ダニー・サンドロン (訳:河野俊行)

このパリ最大の建物は信者に広く開放されていた。しかしその一部、特に典礼に用いられるクワイヤ部分と、トランセプト (袖廊)から東側の主身廊を占めるサンクチュアリ (聖域) への立ち入りは禁止されていた。この部分は高さ5メートルの石のスクリーンによって周囲から隔離され、アプス (後陣) アーチの要石に沿って主祭壇が、その後部には大聖堂ゆかりの聖人達の遺物を納める金細工を施した棺が置かれていた。特に著名なのは、主祭壇後ろの一段高い場所に置かれた特別な棺で、5世紀中頃の司教聖マルセルの遺体が収められていた。クワイヤの右側には、カノンやチャプレンといった聖職者たちの座所があり、100人にも及ぶ聖職者たちは毎日8回、夜明けから深夜まで様々な儀式を行った。

12世紀末以降、祭室の設置数が増え、設置者のための記念ミサを行うために多くの祭壇が設けられた。その結果14世紀には毎日約120ものミサが行われるようになった。このような動きを受けて、クワイヤで行われる儀式を妨げないように、小ミサを行うための側部祭室が建設されることとなった。

パリ・ノートルダム大聖堂には教区的な機能はなかったが、主要な宗教的祝日 (クリスマス、復活祭、昇天祭、聖霊降臨祭、聖母被昇天祭) や、ランスでの戴冠式直後の国王訪問、あるいはサン=ドニ大聖堂における国王埋葬前夜の通夜といった特別な行事の際には、教区内の信徒が参集した。このようにノートルダム大聖堂は、各国王の治世の始期と終期に重要な役割を果たしただけでなく、王国内のどの聖なる場所よりも頻繁に君主訪問の栄誉に浴した。それゆえ数多くの王室関連の図像が大聖堂に残された。たとえば西正面の三つのポルタイユ (玄関)の南側ポルタイユである、聖アンヌのポルタイユのタンパン (訳注:玄関扉の頭上、梁とアーチに囲まれた部分) に彫られた跪く国王ルイ6世は、12世紀中頃の作品であるが、13世紀初頭に現在の西正面が建設された際に交換された。また、主祭壇の近くにあったフィリップ・アウグストゥス王 (1180年~1223年)の像 (現存しない) や、通称「赤い扉」のタンパンに1270年頃に彫られたサン・ルイとプロヴァンスのマーガレット国王夫妻像、そして何よりも、フランス君主制を最も生き生きと称えているものとして西正面を飾る28体の「王のギャラリー」を挙げることができる。

この大聖堂は、聖職者と何千人もの信者を集めた行列の出発点であり、終着点でもあった。彼らは、特定の祝祭日や疫病・災害を鎮めるための重要なタイミングで、定められたルートに沿って、聖遺物に随行してパリ市内を練り歩いた。鐘の音は、礼拝を呼びかけると同時に、14世紀中頃に公共の時計が登場するまでは、街全体の1日の終わりを告げるものでもあった。