パリ・ノートルダム大聖堂と首里城
2019年の火災を超えて 復元と文化遺産の価値を考える
ダヴィッド作 ナポレオンの戴冠式 © Louvre, cliché RMN
噴水、タペストリーで飾られたロトンダ、ノートルダムに到着したゲストを迎える様子 (1804年12月2日) © Fondation Napoléon - Patrice Maurin Berthier
ダニー・サンドロン (訳:河野俊行)
14世紀以降18世紀までパリ・ノートルダム大聖堂の改修頻度は高くなかったが、1725年に完成した新しい祭壇の設置によって、典礼が行われるクワイヤとサンクチュアリ (聖域) が刷新された。祭壇にはニコラ・クストゥによるピエタ像が、跪くルイ13世とルイ14世の彫像の間に配置された。この彫刻は、1638年にルイ13世が王国とその王冠を聖母の庇護の下に置いた「ルイ13世の誓願」を記念したものである。その後数十年間に、壁は白く塗り替えられ、中世のステンドグラスは白ガラスに換えられたが、3つの大きなバラ窓だけは破壊を免れた。
フランス革命は、創建以来途絶えることなく教会として機能してきた大聖堂を危うくするものであった。1792年11月7日から1795年8月15日までの期間、大聖堂ではカトリックの礼拝は行われなかったのである。この間大聖堂は、革命を主導した集団を祝うための理性の神殿に変えられ、破壊が繰り返された。西正面「王のギャラリー」の28体の彫像や、西正面及びトランセプト (袖廊) の扉のほとんどが破壊された。瓦礫が大聖堂前広場から取り除かれたのは、1796年のことである。1839年に、また最近では1977年に素晴らしい発見がなされた、大聖堂の彫像装飾の重要な片が発掘されたのである。それらは現在中世博物館 (クリュニー博物館) に展示されている。
カトリック礼拝の再開後も、聖職者たちは大聖堂を「神学博愛主義者」たちと共有しなければならなかった。彼らはクワイヤを占有して礼拝することが許されたため、カトリック教徒はトランセプト (袖廊) の北翼部分に移動することを余儀なくされた。
19世紀初頭、統領政府の下、教皇ピオ7世との間で締結されたコンコルダートの発効により、ノートルダム大聖堂はカトリック教会としての機能を完全に取り戻した。1802年4月18日、これを記念して、ノートルダム大聖堂では新司教のモンセニュール・ド・ベロイ列席の下で盛大な式典が挙行された。
1804年12月2日、この大聖堂で挙行されたナポレオンの壮麗な戴冠式は、国の歴史の偉大な時間と大聖堂の間に新たな結びつきが生まれた瞬間であった。建築家ペルシエとフォンテーヌによる大聖堂の改修と装飾の結果、側廊と回廊に上層階を設置したことで収容人数は倍増し、現在同様約1万人を収容できるようになった。
ナポレオンは自らの戴冠後、皇后ジョゼフィーヌを戴冠する前に、教皇によって聖別された。このシーンは画家ダヴィッドによって描かれ不朽の名作となった。これらの儀式はクワイヤの中で行われた。その後、皇帝ナポレオンは身廊に設置された24段からなる壇最上段の玉座に戻り、憲法上の宣誓を行った。一方教皇は聖具室に向かった。
この戴冠式後、政治的権力を讃えるテ・デウムの儀式がノートルダム大聖堂で行われることが増えていった。テ・デウムはナポレオンの軍事的勝利を祝うためにも歌われ、また8月15日にも歌われた。この日は中世からノートルダム大聖堂で盛大に祝われていた聖母被昇天の祝日であるが、ナポレオンの誕生日でもあったからである。
古くからの伝統を復活させた国家的儀式は、今日にいたるまで続いている。