パリ・ノートルダム大聖堂と首里城
2019年の火災を超えて 復元と文化遺産の価値を考える
ウォレス・ウォーズリー監督、ロン・チェイニー (カジモド役) 出演の映画「ノートルダムのせむし男」(1923年) のポスター © Universal Pictures, 1923.
1923年10月20日付『Universal Weekly』の裏表紙に掲載された、映画『ノートルダムのせむし男』(1923年) の広告。© Universal Weekly, 1923.
ミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』来日公演のポスター。© Comédie musicale Notre Dame de ParisDroits réservés, 2013.
シルヴィ・サグネス (訳:河野俊行)
プレイヤーをフランス革命の時代に導く『アサシン クリード ユニティ』(2014年)、第二次世界大戦中に展開される『The Saboteur』(2009年) や『Call of Duty: WWII』(2017年) といったゲームには、プレーヤーが偉大な歴史の流れに浸ることができるということ以外に、どんな共通点があるのだろうか?それは、パリ・ノートルダム大聖堂がビデオゲームの世界を支配したことである。つまりこのモニュメントは、21世紀のグローバル化した大衆文化の中心に位置していることが確認できる。これは決して新しい現象ではない。この現象は、1831年に出版されたヴィクトル・ユーゴーの小説に負うところが大きい。この小説の様々な翻案作品が、映画館や小さなスクリーンで20世紀を彩ってきた。一般的には、ウィリアム・ディーターレ監督の「ノートルダムのせむし男」(1939年) とジャン・ドラノワ監督の「ノートルダム・ド・パリ」(1956年) が有名だが、その他にも新旧の大陸で撮影された多くの映画がある。1990年代には、ディズニー・スタジオの長編映画『ノートルダムの鐘つき男I・II』(1996年、2002年) と子供向けテレビシリーズ『カジモドの魔法の冒険』(1996年) によって、ノートルダムはアニメーションの世界に登場した。舞台、正確に言えば、同じ時期に停滞から脱しつつあったミュージカル劇場も例外ではない。1998年、リチャード・コシアンテとリュック・プラモンドンが制作した作品は20カ国以上で上演され、9カ国語に翻訳された。「Der Glöckner von Notre Dame」(1999年にウォルト・ディズニー・シアター・プロダクションがアニメを映画化し、ドイツ、アメリカ、スウェーデンでのみ上演) や「Klokkeren fra Notre-Dame」(2002年にクヌード・クリステンセンがデンマークの観客のために制作) の成功は、あまり注目されていない。しかし、これらの作品は、ユーゴの作品とその石のヒロイン (訳注:ノートルダム大聖堂) の国際的な影響力を証明している。これらのミュージカルのアーティストは、エディット・ピアフやレオ・フェレ、あるいはビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンなどの有名なパフォーマーの後を継いでノートルダムを歌っている。これらの現象は、出版されてすぐに、この小説がブラックリストに載せられたことの復讐ではないかと考えたくなるかもしれない。翻訳、オペラ、演劇、バレエ、派生商品 (「エスメラルダのドレス」、版画、絵画、彫刻、食器、小物など) は、実際には作品の出版と密接に関連しており、「時代を超えたマルチメディアのような総合芸術作品」となっている。
パリのノートルダム (日本語版観光ガイド). © Gisserot Éditions, mai 2004.
パリ・ノートルダム大聖堂前の観光用交通機関。© Dunston Thomas Evans, juillet 2018, Creative Commons, CC BY-SA 4.0
シルヴィ・サグネス (訳:河野俊行)
観光の観点から見ると、パリのノートルダム大聖堂は最上級の大聖堂である。パリ、フランス、そしてヨーロッパでも最も訪問者数の多いモニュメントであり、少なくとも北京の紫禁城が表彰台の第一位を占めていない場合は、世界で最も訪問者数の多いモニュメントでもある。火災以来メディアが繰り返し報道してきた数字によれば、毎年2,000万人が大聖堂前広場を通り、その5分の3にあたる1,200万人から1,400万人 (1日あたり3万人以上) が建物に入場していた。実際には、観客を正確に数えたり調査したりしたことはないので、これらは推定値に過ぎない。早とちりした人は、ノートルダム大聖堂を「大衆向け」観光名所と考えたくなるかもしれない。
もしそう考えた人がいるとするならば、その人はこの数値のもつ別のニュアンスを認識しないこととなる。というのも、フランス人や外国人、グループや家族連れ、あるいは単身で訪れる人たちなど、訪問者は様々なカテゴリーに分けられる。多くの名所巡りに慌ただしい観光客、出張者、バジリカとして建てられた聖母マリアの聖地であり貴重な遺物の守護者としての大聖堂に惹かれるカトリック教徒の巡礼者、ゴシック芸術に魅せられた古い石の愛好家など、これらすべての人々が、ノートルダム大聖堂に押し寄せる群衆の増加に貢献しているのだが、一人の訪問者でも複数の動機をもちうるため、常にこの者を他の訪問者から区別することはできない。聖堂内部では、音楽愛好家たちが、メトリーズの合唱、オルガンのコンサートに魅了されている。また、教会の教義から離れ、超自然的なもの、神秘的なもの、神聖なものを求めているスピリチュアリズムの「信念」を持つ信者たちと肩を並べることもある。この大聖堂が、首都解放のドラマの中で果たした役割を通して、第二次世界大戦の「記憶の場」になったがゆえに、英仏海峡や大西洋を越えてやってきた退役軍人とその子孫を迎え入れている。このモニュメントが可能にするあらゆる知覚のバリエーションによって、この大聖堂は、その並外れた吸引力を基礎とした「総合的な経験」の場になっているのである。
2013年夏、ノートルダム大聖堂の850周年記念の年、CASA Notre-Dame de Paris の国際コミュニティが来訪者を迎える様子。© Association CASA, 2013.
ウェルカムデスクと一緒に記念撮影。2015年8月、パリの CASA ノートルダム国際コミュニティ、大聖堂のファサードの前で。© Association CASA, 2015.
シルヴィ・サグネス (訳:河野俊行)
観光客が押し寄せることと、オーバーツーリズム状況にある遺跡の宗教的使命との間には、元来相容れないものがあることを強調する意見もある。パリのノートルダム大聖堂では、ヴォールトの下で警備員の「しーっ!」という声がいつも響いていたが、実際この問題は厳しい指摘を受けてているようだ。ジャン=マリー・ルスティガー師とその後継者たちが、この教会を他の教会よりも生き生きとしたものにしようと努力してきたことが、それを証明している。毎日曜日の説教に加えて、毎年約2,000回の礼拝と百数十回の特別な儀式が行われており、聖職者たちはこの場所を観光客だけに委ねないと決意している。もっとも、文化的利用と宗教的利用の共存を対立的に考えるのは誤りである。教会は一般的に、観光がもたらす刺激や不信感を避けるように注意しているからだ。それどころか、教会への訪問を接触の機会と捉えている。それは、福音を証ししないまでも、少なくとも、このつかの間の出会いの瞬間に、歓迎され、理解される立場にあることを訪問者に保証するということである。これが司牧活動、すなわち1972年以来、CASA (Communautés d'Accueil dans les Sites Artistiques) のボランティアが担当している、パリのノートルダム大聖堂における観光客のための活動である。1967年に設立されたこの全国的な団体は、夏になると、共同体での生活を経験することを求められている若者たちが、時間やスケジュールを決めずに宗教的建造物を無料でガイドすることで、歓迎の使命を形にしている。1977年以来、パリのノートルダム大聖堂では、システムが少し異なっている。年齢制限なしに募集されたボランティアによって、年間を通じて、あらかじめ設定されたスケジュールに沿って、約10の言語で見学が行われている。夏になると、1981年に設立された国際部にその役目を譲る。国際部は、フランス語話者はほとんどおらず、18歳から35歳までの若者からなるコミュニティである。今回の火災は、CASA の習慣を変えることで、CASA の指導方法を再構築するだけでなく、創設者アラン・ポンサール神父 (1917-2012) が理解していた司牧活動の基本を再発見することにもつながっている。
頤和園跡の公園にあるヴィクトル・ユーゴーの胸像 (中国・北京、2011年5月27日)。© Mayanming, Licence Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported.
张君 (訳:河野俊行)
「カジモドはすでに愛した女性を失い、ついには自分にとって大切な塔を失ってしまった」。多くの中国のインターネットユーザーは、このような言葉を様々に表現し、ノートルダム大聖堂が燃えているのを発見して心を痛めている。ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』の登場人物が、なぜ中国でこれほどまでに知られているのか。この小説が有名なのは、第二次アヘン戦争中の1860年10月18日、英仏軍に略奪された中国の皇帝・咸豊帝の夏の離宮である頤和園が略奪されたことに対するヴィクトル・ユーゴーの反応によって、その名声が絶大なものになったからである。彼は、バトラー大尉に宛てた手紙の中で、フランスとイギリスの「盗賊」行為を非難し、その惨状を嘆いている。この文章は、特に中国の学校のカリキュラムに組み込まれたことで有名になった。これは、「ギリシャのパルテノン神殿、エジプトのピラミッド、ローマのコロッセオ、パリのノートルダム大聖堂、東洋の頤和園」を組み合わせた「世界の不思議」という、国家の所有権を超えた普遍的な価値を持つ世界遺産の考え方の種となっている。このように、ヴィクトル・ユーゴーは、文化遺産が災害に直面したときに従うべき模範と考えられている。一部のインターネットユーザーは、ノートルダム大聖堂を襲った災害を頤和園の破壊に対する正当な復讐と考えていたが、多くのユーザーはヴィクトル・ユーゴーの態度を支持し、遺産は国家やその違いを超えて、人類全体の作品の証となるという考えを擁護した。
中国におけるヴィクトル・ユーゴーを取り巻くオーラが、カジモドと大聖堂の物語を中国人の想像力に深く定着させたのだとすれば、小説の映画化や演劇化もまた、この想像力のダイナミクスに貢献していると言えるだろう。リュック・プラモンドンとリチャード・コシアンテによるミュージカル「Notre-Dame de Paris」や、ディズニーによるアニメーション映画「The Hunchback of Notre-Dame」は、中国で目覚ましい成功を収めている。この小説は、約2世紀前にノートルダム大聖堂を救い、今もその世界的な魅力に貢献している。そして中国人の心の中のノートルダム大聖堂にも命を吹き込んでいるのである。