パリ・ノートルダム大聖堂と首里城
2019年の火災を超えて 復元と文化遺産の価値を考える
フランス・モニュメント博物館に展示されているノートルダム大聖堂の尖塔の鶏 © Marie-Hélène Didier, 2020.
ガスパード・サラトコ (訳:河野俊行)
パリ・ノートルダム大聖堂の焼失を記憶すべきなのか、もしそうだとするならば、どう記憶すべきなのか。この問いに対する答えは明らかではない。2019年4月15日以降、大聖堂の修復にともなう様々な行事が催されている。建物やその救助と再建を称える宗教的または世俗的な式典、典礼用具の復活利用、大聖堂から救出された彫像にスポットを当てた展覧会、そして公人の訪問などである。これらのイベントはすべて公的な性格を持っているが、すべての関係者にとって同じ意味を持つわけではない。火災を記憶する方法は一義的なものではないからである。それらは建物に与えられた意味とその利用方法に規定された異なる論理に基づくからである。火災の2ヶ月後、パリ大司教は大聖堂内でミサを挙行した。この式典は列席者なしで行われたが、ライブ中継され、この建物の宗教的側面を強調した。この例は、教会の記念機能はキリスト教創始のエピソードを記念することであるという、教会組織の視点を示している。このような宗教施設の視点は、悲劇の際の感情を表現しようとする教区民には必ずしも共有されていない。教区民にとって、この感情を共有することは、鐘や茨の冠などの典礼用具の復活利用や、必要に応じて用具を修復することに関わることを意味する。遺産保護組織にとって、火災は大聖堂の歴史に新たな一ページを開いたのだが、刹那的な記念行事は、遺産保護組織が火災後に表明した懸念と相通じるものがある。
ノートルダム大聖堂の木組みの焼けた木片を販売 © L’Est Républicain, 22 avril 2019.
パリの聖ジュヌヴィエーヴの聖遺物の行列。毎年1月にこの聖遺物は、サン・エティエンヌ・デュ・モンからパリ・ノートルダム大聖堂まで運ばれる © Gaspard Salatko, Fondation des Sciences du Patrimoine, janvier 2020.
ガスパール・サラトコ (訳:河野俊行)
火事の後、大聖堂には奇妙な問い合わせがくるようになった。それは、大聖堂の瓦礫の一部を分けてほしいという依頼だった。その動機は、芸術作品や建築プロジェクトに大聖堂の瓦礫を埋め込みたい、あるいは大聖堂との個人的な関係性を記憶するため、など様々だった。これら多様な要望は、一般市民の大聖堂への愛着が、宗教的な願望や大聖堂の国家的な側面を超越したものであることを示している。大聖堂の職員も折に触れ発言しているが、ノートルダム大聖堂が世界的に著名なのは、そのゴシック様式の素晴らしさだけに由来するのではない。ディズニーの「ノートルダムの鐘付き男」を始めとする映画の影響が大きいのである。
とはいえ、所望する者に大聖堂の瓦礫を与えることはありえない。大聖堂を管理する行政機関にとって、これは単なる瓦礫ではなく大聖堂自体の遺物なのである。そしてその保存を保証する国家の不可侵財産なのである。他方、カトリック教会の立場は全く異なる。カトリック教会にとって、大聖堂の木組みの瓦礫は、他のいかなる燃えた木と変わるところはない。これらの遺物にいかなる例外をも認めないのは、キリスト教の歴史の物質的な痕跡であるとともに、典礼化された慣習に則った崇拝の対象たる聖遺物との区別が曖昧になって、誤解を招きかねないからである。つまり宗教団体と文化遺産保存団体は、大聖堂の卓越性を称える場合でも、また大聖堂のドラマに意味を与える場合であっても、採用するアプローチを異にするのである。にもかかわらず、ノートルダム大聖堂を愛する人たちは、これらの団体が考えもしなかった理由に基づいて、瓦礫を分けてくれと求め続けている。ある応用美術を専門にする学生は、焦げた木組みの破片を保存するための聖遺物箱を作成したいから、という理由で瓦礫を所望した。ある者の聖遺物は、他の者の聖遺物ではないのだ。
作業員の集合写真 © Alexis Komenda, C2RMF, février 2021.
ハードな一日の後に共に笑顔で © Alexis Komenda, C2RMF, janvier 2020.
シャワー室で記念写真 © Alexis Komenda, C2RMF, juillet 2019.
クロディ・ヴォワスナ (訳:河野俊行)
修復現場は確かに技術的な挑戦ではあるが、それは何よりも、現代の人々を昔の建設者の価値観、知識、ノウハウに結びつけるための、集団的かつ人間的な企てである。現場では、各自が、自分の存在、この場所と歴史に残してゆく痕跡、そして進行中の作業を忘れないよう気を配っている。その結果生み出される写真、動画、図面、文章や他の証言は、この特別な体験と凝縮した感情の記憶となり、アーカイブを構成する。ここでは、建築家、科学者、ロープで吊るされた技術者、職工、鉛害防止者、サスマン*などが混在するひとつのコミュニティが形成され、作業とそれが行われる例外的な状況による制約によって強く結び付けられた。これらの制約は、建物の安定性とそこで働く人々の安全性に対する不安にも関連するが、同時に、鉛汚染から身を守らなければならないことにも関連する。すべての作業者は、鉛害から自らを守るために、足浴、入退場の際のエアロックの使用、義務的なシャワー、すべての「私服」を現場で支給される特別なオーバーオールと下着に着替える義務、鉛汚染のリスクが高い場所における換気マスクの着用といったことが必要になる。建設現場に入ることは、高度に典礼化された儀式のような様相をみせる。作業服やヘルメットの色、そしてそこに描かれたロゴによって、それぞれの職業を見分けることができる。また作業者は必ずしも他の作業者の顔が見えるとは限らないが、そういう場合は歩き方でお互いを認識することもある。これらすべての細部によって、誰が修復現場における「家族」の一員であるかがわかる。と同時に、訪問者は青いテープが目立つオーバーオールを着用することを求められるため、訪問者であることが一目瞭然となる。
訳注*:修復現場における「清潔」な部分と「汚い」部分の間の移行エリアの責任者。この部分に入るためには特別の手続きに従い、特別の用具を装着する必要がある。これらの手続きが正しく行われることを保証し (除染のためのシャワー、特別なスーツの着用、換気マスク)、必要なタオルや下着などを提供する。人々は修復現場に出入りするや否や彼らと接触することになる。