感性がとらえた大聖堂

Chapter 1  ノートルダム大聖堂:総合芸術の体験

ノートルダム・ド・パリ 2017 Bruno Sellier - 作家、空間演出家。プロジェクトマッピング © Jean-Marc Charles, 2017.

ノートルダム・ド・パリ 2017 Bruno Sellier - 作家、空間演出家。プロジェクトマッピング © Jean-Marc Charles, 2017.

ノートルダム・ド・パリ 2017 Bruno Sellier - 作家、空間演出家。プロジェクトマッピング © Jean-Marc Charles, 2017.

マルタン・モンフェラン、クロディ・ヴォワスナ (訳:河野俊行)

ヴィオレ=ル=デュックは、おそらくまだ3歳から5歳くらいの幼い子供だったときに、年老いた使用人に連れられてノートルダム大聖堂を訪れた。「大勢の人が集まり、大聖堂は黒く覆われていた。私の目は南のバラ窓のステンドグラスに釘付けになった。そこから、太陽の光が差し込み、最も鮮やかな色合いに染まっていた。突然、大きなオルガンの音が聞こえてきた。私にとっては、目の前にあるバラ窓が歌っているように思えた[...]。ステンドグラスのこのパネルからは低い音が、あのパネルからは高い音が出るのだと想像で信じるようになった私は、あまりにも美しい恐怖に襲われたため、建物から出なければならなかった。」後にノートルダム大聖堂の修復家となる彼は、こうして初めて芸術に触れたのである。芸術は一つの源から複数の表現に分かれており、「詩人、音楽家、建築家、彫刻家、画家の誰であろうと、芸術家は魂の同じコードを打つ」(「建築について語る」) のであり、彼にとっては本質的に多感覚的な体験となった。彼は間違いなく、ルドルフ・オットーが定義したように、恐怖と魅力の両方の源である聖なるものを経験したのだ。

今日でも、大聖堂を訪れる人々は、五感を駆使し、この建物への愛着や美的体験を語る。彼らは、午後遅くにファサードを照らすピンクに近い柔らかな光や、大きなバラ窓に照らされた内部の暗い寒さ、鐘やオルガン、聖歌に高揚感を覚えるかのような場所の美しさを思い起こす。彼らの一人は、「大聖堂が修復されたら何を見つけたいか」という質問にこう答えている。「古い石はもちろん保存できますが、魂は残っていますか?ステンドグラスの色や、聞こえてくる音。あの匂いはきっとなくなってしまうだろう。」

Chapter 2  人の命の視点から:もう一つの真実性

冬のノートルダム大聖堂 © Guilhem Vellut, Creative Commons, CC BY 2.0, février 2016.

春のノートルダム大聖堂 © Ewcia2331, Creative Commons, CC BY-SA 4.0, 13 avril 2019.

パリ・ノートルダム大聖堂の前で記念撮影. © Gary Todd, Creative Commons, CC0, juillet 2016.

マルタン・モンフェラン、クロディ・ヴォワスナ (訳:河野俊行)

文化遺産の専門家は、芸術の基準に照らして真実性を検討する傾向がある。イタリアのルネッサンス期から18世紀にかけて芸術作品の新たな定義が確立されたが、そこでは絶対的な単独性が特徴となっている。この文脈では、真実性確認の問題が中心となり、その結果として、作者(署名付きか)、起源、年代、制作過程、当初の状態に照らした保存状態が問われる。要するに、これらは芸術作品を特徴づける要素であり、芸術作品を際立たせる要素である。このような形の真実性は、基本的に形と材料に付随するものである。

しかし、真実性には他の形態もあり得る。例えば、法律では、原本の真のコピーであることが証明されれば、そのコピーはオーセンティックであると言える。同一に復元することは、材料や技術の起源を明らかにすることで、真実性の一形態と同化することができる。この場合、真実性を証明するのは、建物の形や材料ではなく、その復元を主導したプロセスである。

最後に、大半の遺産利用者にとって、真実性は学術的な基準だけでなく、モニュメントに付随する記憶にも関連している。実際、モニュメントは記憶が具現化される場所であるだけでない。モニュメントは記憶を生み出し、個人の歴史に刻まれる。我々はそこで感じたことを覚えている。壮大さ、永遠性、起源、精神的な高揚感、歴史の中心にいること、過去とつながっていること、人間と建築家の系譜の一部であること......。ノートルダム大聖堂を体験する方法は無数にあるが、常に問題となるのは、それが精神に与える影響である。ノートルダム大聖堂の真実性とは、物質的なものではなく、心理的で精神的なものであり、残された印象に忠実であること、あるいは大聖堂の道徳的・知的・芸術的な影響に忠実であることなのである。ここでは、真実性とは、存在がその個性を表現し、自らを明らかにし、際立たせるような深い価値、という哲学的な意味に到達する。

愛する人、老婦人、家族の一人、親しい友人などと形容されることの多いノートルダム大聖堂は、確かに人格を持ち、なかには魂をもつと言う人もあるくらい、すべての人に唯一無二の影響力を与えている。訪れる人が、ノートルダム大聖堂に忠実であることを望むのは、この深い真実に対してである。

Chapter 3  典礼、信仰の密度の静かな存在感

キメラ © Benjamin Mouton

典礼 © Benjamin Mouton

クワイヤを囲む聖なる物語 © Benjamin Mouton

ベンジャマン・ムートン (訳:河野俊行)

カトリック建築
大聖堂は、中世の叙事詩を表現したものであり、勝利と喜びに満ちた宗教の再生、つまり新しい教会を称えるものであった。西面のファサード、彫刻、ポルタイユ、待ち伏せしている世界の危険を物語る、高所に置かれたキメラや幻想的な彫像を通して、大聖堂の建築はこのことを物語る。

「救い」は内側にある。この荘厳な書物ともいうべき建物は、視線を聖域や祭壇に導き、側廊を歩き回る間も聖なる物語を伝える。信者たちにとって、ここは自然とインスピレーションを与えてくれる場所である。

場所の神聖さ
一般の訪問者あるいは無宗教の人がこの場所の神聖さを感じるのは、威厳、壮大なスケール、光、音...の効果といったことだけでなく、おそらく何よりも、感じられることのない無言の密度の効果、壁・石・ヴォールトの呼吸の効果によるのだろう。それは、訪問者を捉え、動揺させ、自らの意思に関わらず気づかせるものなのだ。

そして、いかなる文化的影響も受けない原初的な感性こそが、間違いなくこの場所の神聖さを最も顕著に現す。この神聖さは、異教と古代の謎が交錯する歴史の深みから生まれ、人間の魂を形成し、今も心に宿っている。

予想以上に物語る建築のパラドックス...。

世俗性
13世紀には棟梁は世俗職人であり、聖職者に招聘されて大聖堂の建設に従事した。アミアン、パリ、ランス、ストラスブールなどの大聖堂がそれを証明している。これらの傑作は、「大聖堂プログラム」に奉仕する最も効果的な方法は、召命とは無縁であることと示唆しているかのようだ。

ヴィオレ=ル=デュックも世俗建築家であり、彼の同僚や後継者の多くもそうであった。この宗教遺産の保存を主導するのは建築なのだから、それ以外の影響を受けずに専念するためには、創建時の延長として、世俗的であることが必要なのだろうか?

作品に宿る建築家のパラドックス...。

灯 © Benjamin Mouton

聖なる場所 © Benjamin Mouton

荘厳な建築物 © Benjamin Mouton

重厚な内装 © Benjamin Mouton

僧侶と兵士の間の棟梁。ヴィオレ=ル=デュック「建築辞典」より (一部抜粋)

均整のとれた建築 © Benjamin Mouton