パリ・ノートルダム大聖堂と首里城
2019年の火災を超えて 復元と文化遺産の価値を考える
16世紀中頃のシテ島。トルシェとホワイヨによる図 © Archives Nationales
1570年 モデル、カルナヴァレ美術館 © Benjamin Mouton
1615年 メリアンによる図 © Archives Nationales
1739年 トゥルゴによる図 © Archives Nationales
ベンジャマン・ムートン (訳:河野俊行)
中世、控えめな距離
13世紀、ノートルダム大聖堂は、シテ島の中心部の、非常に密集した地区にその場所を得た。大聖堂の前には、幅60m、奥行き28mを超える正面広場があり、その軸線上には「ヌーヴ・ノートルダム通り」が工事のために貫かれた。
18世紀、都市の広場
18世紀半ばに、この広場は古典的な都市広場の思想に基づいて再設計された。ヌーヴ・ノートルダム通りの入り口は列柱のパビリオンで囲まれる計画であったが、実際には北側のパビリオンのみが建設された。広場の奥行きは52mに拡大された。1772年のオテル・デューの火災後、広場の幅は80mに達した。
19世紀末、 壮大な広場
1865年以降に劇的な変化がもたらされた。ヌーヴ・ノートルダム通りが取り壊され、その10年後にはセーヌ川沿いが完全に撤去された。1874年には、広場の奥行きは150m、幅は100m、面積は1.5haに達した。大聖堂は、何もない空間に建ち、人体尺度を逸した、孤立した建築「物」となったのである。
2016年、建築家のドミニク・ペローは、透明なガラスで覆われた前広場というアイデアを提示し、大聖堂を抽象化して孤立させた究極の状態を表現した。
街中の大聖堂
幸いにも中世の広場が残されている都市では、大聖堂は、3~4階建ての家が並ぶ狭い通りの先に見える。 往々にして、「不完全な配置の意図的な悪意」によって、通りは大聖堂の正確な軸線上にはなく、北側の塔が通りの空に伸びる。歩行者は、近づくにつれ、建物がどこにあるのか推測するのだが、それは、突然出現し、その巨大な力によって素晴らしい「建築の劇場効果」を与え、歩行者の心を捉える。(ルーアン、カンペール、19世紀初頭までのパリ)。
ノートルダム大聖堂の前にある150mの大きな広場は、建物の正面写真を撮る以外に、何をもたらしてくれるのか?訪問者は、広場にやって来た時、何を得るだろうか?同じ姿が大きく見えてくるだけで、それ以上の感動はないだろう。拡張された広場は建築を乾燥させ、建物は静かで孤独なものになった。
復元
壮大な過ちに終止符を打ち、広場を復元するという、願ってもない機会が訪れた。
これは、伝統的な都市構造に合せ、大聖堂を損なうことなく、また国際的な建築の流行やトレンドに妥協することなく21世紀初頭の建築が何を達成できるのかを示す、大聖堂と街を調和させる真の建築的挑戦となるであろう。
これは野心的な目標であり、パリ市が最近計画しているコンペティションが、大聖堂と都市に関わるスケールと挑戦に適切な回答を提供できることを期待している。
18世紀半ば © Archives Nationales
1750年 © Archives Nationales
1867年 ナーヴ通りでの取り壊し開始 © Archives de la Ville de Paris
セーヌ川の整備 © Archives de la Ville de Paris
1912年の絵葉書
2000年 © Google
ドミニク・ペロー・プロジェクト © Centre des monuments nationaux