パリ・ノートルダム大聖堂と首里城
2019年の火災を超えて 復元と文化遺産の価値を考える
グスクから王府へ |
冊封使行列図 (部分) © 沖縄県立博物館・美術館提供
察度王統が立つ。 このころまでに、各地を割拠していた按司 (有力者) の勢力が、中山、山北、山南の三つにまとまる。 |
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冊封・朝貢体制の始まり。 一説によれば、このころ首里城が造営され、中山の王都が浦添から遷されたとされる (遷都は尚巴志によるとする説もあり)。 |
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1406 | 尚巴志が察度を継いだ武寧を滅ぼし、父思紹を中山王とする。 第一尚氏王統のはじまり。 |
1427 | 安国山樹花木記碑の建立。 碑文には、首里城の外苑として龍潭を掘り、その土を盛って安国山 (現城西小学校一帯) を築造し花木を植えたとあり、遅くともこのときまでに首里城が造営され、王都にふさわしく整備されていったことを示唆している。 |
1429 | 琉球王国の始まり 尚巴志が三山を統一し、首里城を王府とする。 |
繰り返された再建と修理 |
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琉球に漂着した朝鮮人万年らによると、正殿は三層であり、殿上に坐す国王に対して正装した群臣が御庭から拝していたという。 | |||||||
1453 | 志魯・布理の乱により正殿焼失。記録はないが1456年までに再建か。 第五代国王の世子と王弟が王位をめぐって王府を二分した内乱。両者とも落命。 |
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1454 | 尚泰久が即位。 このころ臨済宗の禅僧芥隠承琥が来琉。多くの寺院が建立される。芥隠承琥は尚真王の代まで仕える。 |
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1456 | 琉球に漂着した朝鮮人梁成および 1460年に漂着した肖得成らによると、正殿は三層で朱に塗られ、屋根は板葺きで錫の装飾があり、王は中層に居たという。 | ||||||
1458 | 万国津梁の鐘を鋳造し、正殿に掛ける。 梵鐘は沖縄戦にも焼け残り、現在は沖縄県立博物館に収蔵されている。 護佐丸・阿麻和利の乱により、有力按司が滅亡。 |
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1466 | 奄美諸島を支配下に置く | ||||||
1470 | 尚円が即位。第二尚氏王統のはじまり。 | ||||||
1477 | 尚真が即位。1527年までの在位中に中央集権を強化し、地方行政区画を整備する。 各地に割拠する按司を首里に集居させ、職制・位階制を定める。 |
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1494 | 円覚寺創建 | ||||||
1500 | アカハチ・ホンガワラの乱。以後、王府による宮古・八重山の本格的支配。 | ||||||
1501 | 玉陵造営 | ||||||
1508 | 正殿正面に中国産輝緑岩を用いて欄干を造営。 中国の宮室制度に習って設置されたことが欄干之銘に刻まれている。中国産輝緑岩の龍柱もこのころ創建。この龍柱のものとされる残欠が琉球大学博物館に収蔵されている。
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1534 | 冊封使陳侃により、正殿は西面し、南面七間・西面七間と記録されている。 | ||||||
1609 | 島津侵攻 これ以後、琉球王国は薩摩の支配を受けながらも存続し、明そして清との朝貢・冊封関係を維持する。
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1660 | 失火により正殿全焼。王府は城外に移転。 | ||||||
1667 | 龍柱をニービヌフニ (細粒砂岩) で再建。 この龍柱のものとされる残欠が沖縄県立博物館に収蔵されている。 |
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1671 | 羽地朝秀 (向象賢) による再建工事竣工。 この再建で、正殿は板葺きから瓦葺とされる。「向姓系図家譜」の記事が、この再建の様子を伝える。正殿のほか、多くの御殿や門が再建・修復された。 |
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1682 | 正殿重修工事。正殿屋根に五彩龍頭棟飾を載せる。 | ||||||
1683 | 冊封使汪楫により、正殿は西面し、各面はすべて七間であると記録されている。 | ||||||
首里城正殿前城元仲秋宴設営絵図 © 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所属 鎌倉芳太郎撮影 首里城正殿前城元設営絵図 © 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所属 鎌倉芳太郎撮影 |
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1709 | 失火により正殿全焼。 | ||||||
1712 | 再建工事着工、1715年竣工。 正殿向拝に唐破風がつく (1713年「琉球国由来記」に「唐破風」とあり)。このときの唐破風は一間幅か。正殿のほか、多くの御殿や門が再建・修復された。この工事のため、薩摩から 1万9525本の用材が調達された。この時、石高欄も再建された。沖縄戦で焼失したのは、この時再建され、その後の重修工事を経た正殿であると考えられている。 龍柱をニービヌフニ (細粒砂岩) で再建。この龍柱のものとされる残欠が沖縄県立博物館および琉球大学博物館に収蔵されている。戦災で破壊されたのはこの龍柱とされている。 |
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1713 | 毛文哲と蔡温による首里城等の風水検分 | ||||||
1719 | 冊封使徐葆光の来琉 徐葆光による「中山伝信録」に、正殿は九間であると記す。絵図に唐破風が描かれている。 |
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中山伝信録より 中山王府仲秋宴図 © 那覇市歴史博物館提供 |
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1728 | 蔡温が三司官 (宰相) に就任。 国政改革を進めるとともに、首里城内における祭祀・儀礼の改革も行う。 |
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1729 | 正殿重修工事。 「球陽」に、御差床 (玉座) を正殿中央に改設するとの記述。正殿の美称を唐破風から唐玻豊に改める。
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1756 | 冊封使周煌の来琉 周煌による「琉球国史略」に、正殿は九間で、左右に狭室がつくと記す。この平面形式は、1768年工事時の記録 (寸法記) と一致。 |
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1768 | 正殿重修工事 (解体修理) | ||||||
正殿の造作を示す絵図 (寸法記) © 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所属 鎌倉芳太郎撮影 |
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この工事記録として、「百浦添御殿普請付御絵図幷御材木寸法記 (寸法記)」が現存 (県立芸大所蔵鎌倉資料の一部)。これによると、平面形式は、正面九間・側面七間、両側左右にやや狭い一間を加える。正面中央に五間幅の庇が張り出し、さらに唐破風のつく向拝が三間幅で張り出す。 この年の大地震で城壁の一部が崩れる。
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1811 | 正殿重修工事 | ||||||
1839 | 「図帳勢頭方」の写本が作成される | ||||||
1846 | 正殿重修工事 (解体工事) この工事の記録として、「百浦添御殿御普請日記」「百浦添御普請日記」「百浦添御普請日記・当方」「百浦添御普請絵図帳」が現存 (那覇市歴史博物館所蔵尚家文書の一部)
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1866 | 冊封使来琉。「冠船之時御座構之図」「冠船之時御道具之図」が作成される。 | ||||||
1877年フランス海軍巡洋艦船の琉球寄港に際しルヴェルトガ少尉により撮影。現在確認される最古の写真。Temple dans la cour du palais de l'Ô-Sama 「首里城正殿」© 原版所蔵者 Hervé Bernard, France |
明治日本での荒廃と昭和大修理 |
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琉球処分 明治新政府は、琉球王国を廃し、沖縄県を設置 首里城明け渡し。以降、荒廃が進む |
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1879 | 熊本鎮台沖縄分遣隊が首里城に駐屯、正殿は兵舎に使用される。 | |||
沖縄県琉球国首里旧城之図 (部分) © 沖縄県立博物館・美術館提供 |
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1896 | 分遣隊の沖縄派遣終了。大龍柱を持ち帰ろうと切断。 この後、沖縄県師範学校、首里区立工業徒弟学校、首里区立女子工芸学校、首里尋常高等小学校などの校舎として利用される。 |
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© 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所蔵 鎌倉芳太郎撮影 二階に織機が置かれているのが見える |
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1909 | 首里城建物と敷地が首里区に払下げとなる。 | |||
1910 | 内務省神社局の要請により、正殿を解体した跡地に沖縄県社を創建する案を、沖縄県庁が計画。その後、災害や天皇の崩御、敷地や祭神の検討などの理由で創建案は四度にわたって改案される。 | |||
1911 | 地震により正殿に被害。 | |||
1921 | 鎌倉芳太郎が安里の沖縄県女子師範学校・沖縄県立高等女学校に図画教師として二年間の任期で赴任。 | |||
1923 | 内務省が県社創建案を許可。首里市会が正殿の取り壊しを議決。 | |||
1924 | 3月に正殿の解体作業始まる。 新聞記事でこのことを知った鎌倉芳太郎の知らせで、古社寺保存の権威であった伊藤忠太が内務省に取り壊し中止を要請。解体は撤回される。 |
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1924 – 1927 |
鎌倉芳太郎が啓明会の研究補助金を得て、琉球芸術調査を実施。 | |||
1925 | 正殿を古社寺保存法 (1897-1929) により「沖縄神社拝殿」として特別保護建造物に認定 | |||
1928 | 沖縄神社拝殿 (正殿) 修理工事着手か。 | |||
1929 | 国宝保存法 (1929-1950) 施行により沖縄神社拝殿が国宝に指定 | |||
1930 | 暴風により正殿に被害。屋根瓦崩落。 文部技師柳田菊造が、修理工事監督のため赴任。 文部省宗教局阪谷良之進が正殿修理工事を視察、ならびに国宝候補物件選定のための調査。 |
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1933 | 沖縄神社拝殿修理工事竣工 この工事で「国宝建造物沖縄神社拝殿図」が作成される。
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